「心に刺さる贖罪のハーモニー」Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)
世界で最も美しいハーモニーを生み出すデュオ、
「サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel)」
今更説明の必要のない、60年代を代表するフォーク・デュオである。
1990年には「ロックの殿堂」入りを果たし、
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」にも選ばれている。
ポール・サイモンとアート・ガーファンクルのハーモニーには、
その美しさと裏腹に、尋常ではない鬼気迫る「何か」を感じる。
私はそれを、
誰もが「過ぎ去った思春期」とともに失くしてしまった、
「剃刀のような鋭さを伴った純粋性」だと思っている。
それに加えて、ポール・サイモンの書く曲のメロディーの「切なさ」
ポール・サイモンは、身長が低いことや、ルックスなどに大きな劣等感を持ち、
学校にも馴染めず、惨めな青春時代を過ごしている。
彼が書く曲の「切なさ」は、反転した「劣等感」である。
私は、このブログで「人生に劣等感は必要はない」と言い続けているが、
例外的に「劣等感」が役に立つ場合がある。
芸術、つまり「アート」である。
全ての優れた「表現」は、
「劣等感」「不満」「絶望」「怒り」
そういったネガティブでドロドロとしたものが反転・昇華されたものだ。
だから、超一流の表現者は総じて「不幸な生い立ち」だったりする。
高校時代、私もポール・サイモンと同じように、
惨めな青春を送っていた。
キラキラしたものは、何もなかった。
例えば、
毎日、高校の休み時間、何人かのクラスメートから、
通りすがりに「気持ち悪い」と言われ続けた。
それがずっと続いた。
言われる度に、心臓をナイフで刺されたような気がした。
好きだった女の子にも言われた。
そして、最後には壊れて、家から出られなくなった。
当時は薄暗くて孤独な、感情のない世界を生きていた。
自分という存在が「汚いもの」「罪深いもの」だという思いに囚われ、
強烈な「劣等感」に苛まれながら生きていた。
しかし、サイモン&ガーファンクルの曲を聴くと、
不思議と、自分という存在が「許された」ような気がした。
私の青春時代は、
「I AM A ROCK(僕は岩)」の歌詞そのものだった。
「I AM A ROCK(僕は岩)」
ある冬の日
深くて暗い 12月の冬の日
僕は唯一人
窓辺にもたれて 街の通りを眺めていた
静かに降り続ける 眩い雪を
僕は岩
僕は島壁を築こう
誰も通ることの出来ない
砦のような壁を
友情なんて必要ないんだ 友情なんて苦痛なだけ
それは僕が忌み嫌う 愛らしさと笑い声
僕は岩
僕は島愛なんかを語るんじゃない
それはとっくに聞いた言葉
僕の記憶の底に眠っている
死に絶えた感情の断片に 今更手を付けようとは思わない
愛そうともしなかった
泣こうとも思わなかった
僕は岩
僕は島僕は本を持っている
守ってくれる詩だって持っている
鎧でしっかりと封をした
僕の部屋の奥深く 僕の身体の奥深く
僕は安全に隠れている
誰も僕に触れないし 誰にも触れたいと思わない
僕は岩
僕は島何故なら岩は苦痛を感じない
島は決して泣きはしないから
でも、どんなに自分の人生が絶望の色に染まっていても、
最後の最後で、諦めなかった。
土壇場で、ギリギリのところで踏みとどまって、
フラフラと歩き出した。
今でも、サイモン&ガーファンクルの曲を聴く。
しかし、もうあの頃とは違う。
どんなに辛いことでも、
懐かしく振り返られる時が、きっと来る。
諦めずに、前を向いて、歩き続ける限り。
いつだって、
「人の心に寄り添える人間」でいたいと思う。
明日は明日の風が吹く。