常に「心のドア」を開いておく
とある方から、職場の人間関係に関する相談を受けた。
どうしても人間的に尊敬できないし、
軽蔑してしまう、許せない人間がいる、と。
その方は、もう相手と会話もしたくない、
関わりたくないとのことだった。
詳細に聞いていくと、
その人がそういった気持ちになってしまうのも無理はないなー、と感じた。
世の中、良い人ばかりではない。
しかし、
会社は学校の部活やサークルではないし、仲良しクラブでもない。
職場は「労働」するための場であり、
仕事は「対価」が発生するものである。
どんなに人格的に問題のある人間だったとしても、
それが会社の同僚である以上、毎日顔を合わせるし、
どこかでコミュニケーションをとる必要が出てくる。
「一切口も聞かない、関わりも持たない!」
と全てをシャットアウトしたい気持ちもわかるが、
周囲の人間からしたら無駄に気を遣うことになるし、
それ自体が迷惑になり得る。
そうやって、何かをバッサリと切り捨てることは一種の快感を伴う行為なので、
時として、人はそういった行動をとってしまうものだ。
しかし、
それで本当に幸せになれるのだろうか。
私にも、そういった時期があった。
昔から忍耐力には相当自信があったが、
ある特定の人間に対して
「コイツだけは許せない」
「自分は正義で、コイツは悪だ」
「コイツは人間のクズだから、相応の報いを受けるべきだ」
そんな風に思っていた。
「コイツは許さない、一切の関わりを持たない」と決め、
完全に無視していた。
すると、どうなったか。
その人が視界に入る度に「怒り」「憎しみ」のスイッチが入り、嫌な気分を思い出していた。
自分は「正義」なはずなのに、いつもイライラ、憎しみに満ちた表情になり、
精神的なストレスに悩まされた。
「コイツさえいなければ、こんな不快な思いをしなくて済むのに」
そう思っていた。
それは、
「自分の人生の【幸・不幸】は、他人によって決まる」
と、宣言しているのと一緒である。
違うのだ。
「決めるのは、自分」なのだ。
いつだって、
どんな時だって、
あなたの人生のあらゆることは、
あなたが決めている。
あなたは 「イヤな奴」の顔を見て
「イヤな気分」になる。
それを選択しているのは、
あなたである。
その「選択する」ということが、
「人生を生きる」こと、そのものである。
自分の人生を「選択する」ことに関して、
すべての責任は自分にある。
そこを「他人の責任」にしてしまうと、
自分の人生の不満を「誰かのせい」にしながら生きていくことになる
「誰かのせい」なので、自分で良くすることもできない。
「好き嫌い」は、あってもいい。
無理矢理「好き」になる必要もない。
だが、嫌いな人間に対して常に憎悪の感情を燃やし続けることは、
あなたの幸せを阻害する要因になる。
あなたが誰かを嫌う時、
その人を「嫌う努力」をしている。
人は「許す生き物」なので、
時間が経つほどに「嫌いの感情」も薄れていくのだが、
そうならないように常に憎悪の炎に燃料を投下し、燃やし続けている。
「嫌う努力」を止めることで、楽になれる。
それは「執着を手放す」ことでもある。
「嫌う努力」を止め、憎しみや怒りの感情を手放し、
フラットな状態を保つ。
好きにならなくていい。
好き嫌いの「評価」を手放し、
ただ、存在を認めるだけ。
「心のドア」が、開かれている状態である。
ドアを締め切って、シャットアウトする事を、
「自分の幸せ」のために止める。
「人を憎む」という行為自体が、
「自分を大切にしていない」ことと同義なのだから。
ドアを開けなければ、
向こう側の景色は見えない。
子供の頃を、思い出してみてほしい。
簡単に人を許すことができた、あの頃を。
ドアを開けることは、難しいことではない。
あなたの「心のドア」を開けることができるのは、
あなただけである。
明日は明日の風が吹く。