仕事を超えた「志事」に取り組む
お疲れ様です。
正月早々、知り合いの飲食店オーナーに頼まれて、
たこ焼き屋台に出ていました。
屋台の設置から営業、撤収まで、全て一人。
今、ざっと計算してみたが、6時間でたこ焼きを500個ほど焼いた。
「生地の仕込みの技術」
「たこ焼きを焼く技術」
「接客の技術」
全てにおいて、相当高いレベルに達していると言っていい。
「生地の仕込み」は研究を重ねた結果、粉が一切ダマにならない、
空気が充分に入った「美味しい生地の練り方」を体得した。
「焼きの技術」は火力と時間に注意しながら、ピンポン玉と見間違えるほど丸く焼き上げる。
「接客の技術」については、本業がメンタルコーチなので問題ない 笑
「お兄ちゃんが焼いたたこ焼き、美味しいな!」
今日も、数人のお客さんから声をかけていただいた。
「ありがとうございます!」
少し、ドヤ顔だったかもしれない。
正直、今はたこ焼き屋台をやっている場合ではないのだが、
オーナーとは長い付き合いで、助けになりたい(この人は3日間徹夜で働いたりする)のと、
純粋に「たこ焼き屋台」という商売が楽しいので、やらせて頂いている。
自分の作ったものを「美味しい」と言って食べてもらえるって、素晴らしいじゃないですか。
しかし、オーナーの従業員の中には、仕事に対してやる気がなく、
全く「売り上げ」を出せない人もいる。
その人と雑談する機会が何度かあったが、
「たこ焼き屋台」という仕事を、卑下していた。
卑下している仕事を嫌々やる訳だから、
その「意識」は全ての行動に出るし、
大きな結果を出せるはずもない。
テキトーに焼いた不味いたこ焼きなんて、誰も食べたくない。
私の場合、物事に取り組むときには「何のためにやるのか(目的意識)」
という事と向き合い、ハッキリと明確にするから、
やると決めた事には、集中して全力を注ぐことができる。
仕事を超えた「志事」として取り組むことができる。
只々カネの為に、嫌々仕事をすることは「苦痛」でしかない。
そして、仕事が「苦痛」になってしまうと、
仕事は人生の大半を費やすものであるから、
必然的に「人生が苦痛」という図式が完成してしまう。
誰もそんな「苦痛な人生」なんて、送りたくないはずである。
しかしこの現代社会において、
本当に多くの人が「苦痛の人生を生きること」を選択している。
何故か?
物事と向き合わずに、自分と向き合わずに、
漫然と生きているからである。
この国の社会システムが用意した「ぬるま湯」にどっぷりと浸かり、
「自分の頭で考えること」を忘れてしまったのだ。
「今日」という日が永遠に続くと、心のどこかで思っているのだろう。
「自分で考え」
「自分で答えを出し」
「自分で選ぶ」
「目先のこと」だけで生きている限り、
「本質」まで辿り着くことはない。
「自分が、本当はどうしたいのか?」
自分に聞かなければ、わかるはずもない。
本気でやってみたら、どんな仕事だって、
何がしかの楽しみ、やり甲斐はあるものだ。
今日はたこ焼き屋台を全力を注ぎ、充実した1日だったが、
さすがに身体中が疲れている。
お風呂にゆっくり浸かって、ハーゲンダッツを食べて寝よう。
こんな毎日が、愛おしい。
明日は明日の風が吹く。