豚骨ラーメンと老子の無為自然
時刻は深夜零時。
無性に豚骨ラーメンが食べたい。
それも、背脂が浮いたドロドロの
こってりスープのやつ。
しかし、
私は現在絶賛ダイエット中である。
深夜のとんこつラーメンは、
もはや麻薬。
頭ではわかっているのに、
あの獣臭い湯気と極細麺の誘惑が
脳裏にへばりついて離れない。
罪悪感という最高のスパイスが、
食欲を異常なまでに
引き立てるからかもしれない。
「つい、食べちゃうんだよね」
いや、女子高生のような
可愛い言い訳をしている場合ではない。
気付けばこのループを繰り返し、
すでに10年が経過している。
結果、見事なまでにハラが出ている。
もう、
貫禄という言葉では誤魔化しきれない。
ただの脂肪の塊である。
「一体、どうすれば……」
この深夜の果てしない
葛藤を解決するため、
私は脳内会議室に
一人の賢者を召喚することにした。
古代中国の偉大な思想家、老子である。
暇だったわけではない。
いや、少し暇だったのかもしれない。
「おお、空よ。
君はまた、己の作った
小さな檻の中で苦しんでいるな」
脳内の老子は、
ゆったりとした衣をまとい、
白く長い髭を撫でながら
穏やかに微笑んでいた。
「笑い事じゃないですよ、老子さん。
私はダイエット中なんです。
しかし、今どうしても
ドロドロの豚骨ラーメンが食べたい。
この食欲をどうにかして
消し去りたいのです」
老子はふぉっふぉっと笑う。
「『上善は水のごとし』という
言葉を知っているか?
水は万物に恩恵を与えながらも、
決して争わず、
人の嫌がる低い場所へと流れていく。
君の食欲もまた、自然の摂理。
無理に逆らうから苦しいのだ」
「いや、自然の摂理に従って
スープを飲み干したら、
私の腹はさらに低い場所へと
垂れ下がっていきますが」
「無為自然、
あるがままを受け入れるのだ。
宇宙は陰と陽のバランスで
成り立っている。
君の『痩せねばならない』という
陰の気が高まり過ぎたゆえに、
今、『豚骨ラーメン』という
究極の陽の気がバランスを取ろうと
君を呼んでいる。
あの白濁したスープは、
まさに万物を生み出す
タオ(道)そのものではないか」
「タオ……」
なんという響きだろう。
ただの豚骨スープが、
急に宇宙の真理のように思えてきた。
老子はさらに語りかける。
「君は『つい食べちゃう』と
自分を責めている。
だが、宇宙の大きな流れから見れば、
君がラーメンを食べることも、
食べないことも、些細なこと。
己の欲求を否定せず、
ただそのこってりとしたスープに
身を委ねなさい」
私はハッとした。
そうだ。
私はダイエットという
人為的なルールに縛られ、
自然の摂理に逆らっていたのだ。
ラーメンを食べたいという心の声は、
宇宙からのメッセージ。
私が豚骨スープを
欲しているのではない。
宇宙が、私を通して
豚骨スープを味わおうとしているのだ。
「老子さん……
あなた、ただのヒゲの仙人かと
思っていました。
わりと良いこと言いますね」
「失礼なやつだな、君は。
まあよい、
その熱々のタオを、
大いに楽しみ、味わい尽くすのだな」
老子は満足げにうなずき、
スッと脳内の霧の中へ消えていった。
私は、
憑き物が落ちたような
晴れやかな気分だった。
そうだ、食べていいじゃないか。
宇宙の真理と一体化できるのなら。
私は溢れんばかりの探求心を胸に、
深夜の静寂の中、
近所のラーメン屋へチャリを走らせた。
「いらっしゃい!」
店員の威勢の良い声。
ああ、
なんて心地よいタオの波動なのだろう。
私は悟りを開いた賢者のような、
穏やかな笑みを浮かべて食券を買う。
「豚骨ラーメン、
バリカタ、背脂多めで」
程なくして、ラーメンが着丼。
勢いに任せ、麺を啜った。
ドロドロのスープが
胃の腑に染み渡る。
美味い。圧倒的な快楽。
これが宇宙の調和。
「満たされていく…。
これが、タオ……」
翌朝。
洗面所の鏡の前に立つ私の口から、
絶望とニンニクの香りが混じった
うめき声が漏れた。
そこには、昨日よりも
さらにパツンパツンに膨れ上がり、
見事に突き出た自分の腹があった。
私は静かに天井を仰いだ。
陰と陽のバランスを取った結果、
私の腹回りだけが
ブラックホールのように
膨張し続けているではないか。
無為自然の代償は、
あまりにも重かった…
脳内のどこかで
古代中国の思想家が
「そこまでは知らん」と
雲に乗って逃げていくのが見えた。
深夜の食欲とは、
老子の教えすらも凌駕する、
実に恐ろしい魔物だといえる。

