「ペヤングの悲劇」と人生について
先日、夜中にブログを書いていた時の話。
一段落したところで「お腹が空いたな」と思ったので、
買っておいた「ペヤング」を食べようと思い、お湯を沸かしたんです。
沸騰したお湯をペヤングに注ぎ、後は3分待つだけ。
3分後の「魅惑のペヤングタイム」に胸を躍らせながら、
引き続きブログを書いていた。
ノリノリでブログを書き上げ、
「よし!完成」と達成感に浸っていた時、
何かを忘れている事に気付いたのである。
「ペヤング・・・・?」
15分ほど経っていた。
恐る恐る台所に行き、ペヤングのお湯を捨てた。
ほとんど出ない・・・だと・・・?
ペヤングの蓋を開けてみた。
ペヤングの「麺のボリューム」が、
いつもの2倍ほどになっていた。
なんとか心の動揺を抑えつつ、こう思う事にした。
「麺が特盛になっている。これは、むしろラッキーなのではないだろうか?」
「お腹を空かせた私に、ペヤングの神が【粋な計らい】をしてくれたのだろう」
「ペヤングの神」が何者なのかはサッパリ分からないが、とにかくそう思う事にした。
ペヤングを部屋に運び、ソースをかけ、実食タイム。
そして、麺を口の中に入れた瞬間に、私の中の魂が叫んだのである。
「不味いわ!!」
水分を吸い過ぎた麺がブヨンブヨンで、
歯ごたえも喉越しも皆無。
これでは「粋な計らい」どころか、
ペヤングの神が与えた「試練」である。
結局、捨てるのは勿体無いので、不味いペヤングをなんとか完食した。
「魅惑のペヤングタイム」を過ごすはずが、この有様である。
「この辛い感じ、以前にもどこかで体験したような・・・・」
その瞬間、頭の中に電流が走ったような気がした。
思い出した!
小学校2年生の時、給食のシチューが不味くて食べられなかったのに、
無理矢理居残りで食べさせられた、あの時と同じだ!
シチューの原料の固形物が溶けてないやつを、
先生に「もったいないから食べなさい!」と、無理矢理食べさせられたのである。
なぜ私は、いい歳した大人になってまで、
まるで小学2年のあの時のように、
不味いペヤングを我慢して食べているのだろうか。
「人生って何だろう」
そんな哲学的な思索にふけりながら、
ペヤングを完食したのである。
しかし、いくら麺が伸び切ったペヤングを悔やんだところで時間は元に戻らない。
アメリカの古いことわざに、
「It is no use crying over spilt milk (溢れたミルクは戻らない)」
とある通り、起きてしまった事を「なかった事」には出来ない。
「起きた事」に対して、どう向き合い、対処するかが大切なのだ。
今回の経験を活かし、次はペヤングを作る時はタイマーをかけるなりの対策を講じたい。
「ペヤングの悲劇」を繰り返してはならない。
窓から見える夜の街を眺めながら、
食後の熱いコーヒーを飲みつつ、そう思ったのである。
明日は明日の風が吹く。