「誰かを馬鹿にする生き方」がもたらすもの
ふと、20代前半の頃の自分を思い返してみると、
本当に「イヤな奴」だったなと、
つくづく思う。
いつも他人の「粗」や「欠点」を探すことに執心し、
見付けると当たり前のように、
馬鹿にし、見下し、嘲笑していた。
目の前でミスなんぞしようものなら、
まるで「最高のネタ」を仕入れたマスコミのように、
大喜びで周囲に吹聴し、笑い飛ばしていた。
周囲もそんな風だったし、
そういった価値観が「当たり前」だと思っていた。
今になって振り返ってみると、
「自分の劣等感から目を逸らすための行動」
だったのだと理解できる。
まるでハリボテのような、
「中身のないプライドを保つための行動」
だったのだと理解できる。
「自分が挑戦せずに済ませるための言い訳作り」
だったのだと理解できる。
自分の人生や境遇に対して、
漠然とした「恐怖」や「不安」を抱えていたのだろう。
呆れるほど、馬鹿で哀れな人間だった。
しかし、そんな生き方を続けていると、
当然ながら、人生そのものが「ジリ貧」になってくる。
他人を馬鹿にしたところで、
自分の人生が何か良い方に動くはずもなく、
結果として「他人から馬鹿にされるような人生」
を自分が歩むことになる。
「因果応報」という言葉があるが、
結局は、自分が発したものが巡ってくるのである。
つまり、
「誰かを馬鹿にすること」は、
「自分を馬鹿にすること」である。
同じなのである。
他人を馬鹿にしながら生きてきたであろう人間を、
たくさん見てきた。
そういった人達が
さらに10年、15年経って、
どうなったか。
その顔に刻まれた表情が、物語っていた。
あなたの周りにいる、
「他人の悪口ばかり言っている人間の顔」を思い起こしてみてほしい。
どこか苦しげな、苦悶するような表情をしてはいないだろうか。
ましてや幸せそうには、とても見えないはずである。
「誰かを苦しめること」は、
「自分を苦しめること」である。
例外のない、真実である。
逃れられない、真実である。
それでも、まだ、誰かを馬鹿にしますか?
それでも、まだ、誰かを憎みますか?
ここまで読んで、あなたも気付いているかもしれない。
もし、あなたが幸せになりたいのなら、
喜びに満ちた人生を送りたいなら、
「自分がしてほしいこと」を、
「まず、誰かにすること」である。
「誰かに優しくすること」は、
「自分に優しくすること」である。
「誰かを喜ばせること」は、
「自分を喜ばせること」である。
「誰かを楽しませること」は、
「自分を楽しませること」である。
そして、
「誰かを愛すること」は、
「自分を愛すること」である。
大切なことだ。
明日は明日の風が吹く。
毎日を生きよ。
あなたの人生が始まった時のように。
ゲーテ