【完結編】10日間の瞑想修行体験記その4

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10日間の瞑想修行も佳境に入り、
淡々と瞑想を続ける日々が続いていた。
生きていると心の中に浮かんでくる、様々な記憶、イメージ。
それらに、意味はないのである。
しかし、本来意味のないものに、多くの人が囚われている。
自分の感情を反応させ、一喜一憂してしまう。
「ただ、現れ、移ろい、消えていくものなんだ」と気付くこと。
全ては「無常」なのだから。
「生きること」は「変化すること」である。
「万物流転」あらゆるものは、常に変化している。
瞑想によって、その「変化」を客観的に観察することで、
物事に感情を反応させず、自分の意志で選択できるようになる。
もし、瞑想中に心地良い「恍惚感」や「安らぎ」を得たとしても、
それを追い求めたり渇望したりせず、ただ客観的に観察する。
逆に「痛み」や「嫌悪感」を感じても、苦しむことを選択せず、ただ観察する。
すると「古い心の習慣」という「脳の反応」から自由になり、
物事に客観的に対処できるようになる。
私も、7日目の夜に「何の不安もおそれもない、安らぎに満ちた気持ち」を感じたが、
8日目は、そんな事はなかったかのように、再び葛藤や嫌悪が意識に表出していた。
しかし、一喜一憂することはなかった。
「ただ、現れ、消えていくものなんだ」と気付いたからである。
瞑想によって、その「感情を客観的に観察する力」を向上させていくと、
あらゆる悩み、怒り、悲しみ、妬み、絶望・・・・。
そういったものの呪縛から、自由になることができる。
どんなに辛いことがあっても、打ちひしがれるようなことがあっても、
「やがてそれは消えていく」ということに気付くことができる。
まさに「生きる技」である。
それを突き詰めていくと、仏陀が到達した「悟り」の境地に達することができるのだろう。
ただ、私の個人的な考えとしては、
仏陀の道を歩み「悟り」を開くのも良いかもしれないが、
多少は人間くささというか、何かに喜んだり理想を追い求めたり、
自分の中の欲望も弱さも認め、共存する中でそれらを統合し、
いつも「純粋な心」を持ちながら生きられたら、それで良いと思う。
自分の人生を自分で選択し、楽しめればそれで良いと思う。
この現代社会を生きていくのなら、それ位が丁度いい。
最終日に、これまでの瞑想とは別の、簡単な瞑想法を学んだ。
これまでの瞑想は、自分を観察し、向き合うもの。
新たに学んだ瞑想法は「自分の心の平和と調和と愛」を、
全ての生きとし生けるものに分かち合うために行う。
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
幸せであれ
心の中で、イメージする。
慈愛の感情が、心の中を満たしていくように感じた。
最後の瞑想が終わった。
やり遂げた・・・・・。
そして、瞑想修行の最後に待っていたものは「愛」だった。
ある参加者の若者が、涙を流していた。
この10日間の修行を経験することでしか、体感できないことがある。
かけがいのない時間を過ごさせていただいた。
ここで「聖なる沈黙」が解かれ、外に出て参加者同士で話をした。
皆、清々しい表情になっていた。
それぞれ色々なものを抱えて、ここに来ていたのだろう。
今まで言葉は交わさなかったが、10日間を共に過ごしたことで、
ある種の「絆」が生まれていた。
翌日の朝、皆でお世話になった施設の清掃をし、
それぞれが帰宅の途についた。
ここで得たものを、それぞれの人生で活かしていくことだろう。
もちろん、私自身もである。
いかがだっただろうか。
これで、10日間の瞑想修行の体験記は終了である。
この体験記を読んで、瞑想というものに対して、
怪しいとか、胡散臭いなと思った人もいるかと思う。
それはそれで良いし、信じたいと思わなければ、それで良いと思う。
そして、もし興味を覚えたりやってみたいと思ったのなら、
ぜひ、頑張ってチャレンジしてみることをお勧めする。
かけがえのない、たくさんの気付きを得る経験になるだろう。
体感しなければ、わからないことがある。
明日は明日の風が吹く。