「えらそうな人」と「馬鹿にする人」の共通点
えらそうにしても偉くはない馬鹿にされても馬鹿ではない
作者不明(瀬戸のお寺の掲示板より)
これを最初に見たとき、
「ああ、本当にそうだな・・・」
と深く納得すると同時に、
どこか可笑しさを感じて吹き出しそうになった。
世の中には、
「この人、えらそうだな」
「なんで、この人こんなに態度が大きいのかな」
「この人は、何と闘っているのかな」
そう思わずにいられないような、
殊更に外に向かって、
「歪んだ自己アピール」に執心する人がいる。
もう、ずっとそういう風に生きてきたので、
無意識レベルで定着してしまっている人も多い。
自信を持つことは大切で健全なことだが、
どうもそれとは様子が違う。
顔の表情にも「歪み」が出ている。
何より「幸せ感」を感じないのである。
そんな人間の一人や二人が、
あなたの会社にもいることだろう。
そういった人たちは、
一見して「強そう」に見えるが、
実は「大きな弱さ」を抱えている。
何か「満たされないもの」があって、
それを埋め合わせるために、
他者からの評価を「奪取」しようとする。
そういった人たちにとって、
人生は「戦い」であり、
「奪い合い」なのだ。
世の中には、
「この人、他人を馬鹿にしてばかりだな」
「この人、他人の失敗を笑うのが好きだな」
「なんで、この人は他人の噂ばかりするんだろう」
そう思わずにはいられないような、
他人の「粗探しハンター」とでもいうような人がいる。
もう、ずっとそういう風に生きてきたので、
無意識レベルで定着してしまっている人も多い。
そういった人たちは、
一見して「楽しそう」に見えるが、
実は「大きな不安」を抱えている。
どこか怯えたような瞬間が垣間見えたり、
「幸せ感」を感じられないのである。
何か「満たされないもの」があって、
それを埋め合わせるために、
他者のことを「下げて」
「安心」しようとする。
そういった人たちにとっても、
人生は「戦い」であり、
「奪い合い」なのだ。
「えらそうにする人」
「馬鹿にする人」
両者に共通する「満たされないもの」
それは、
「自己承認欲求」である。
「えらそうな人」は、
自身が抱える「劣等感」という空洞を、
「他者からの承認」で満たそうとしているのである。
「もっと褒められたい」
「もっと賞賛されたい」
「もっと尊敬されたい」
「もっと好かれたい」
「もっと愛されたい」
他者からの承認を貪欲に求め続ける。
スマートとは言えない方法で。
他人を馬鹿にする行為も、
遠回りな自己承認欲求である。
他人を「下げる」と、自分が相対的に「上がった」気になる。
「下には下がいる。自分はまだマシなんだ」と安心できる。
結果的に、自己承認欲求が満たされた気分を味わえる。
なぜ、こういったことをするんだろう?
自分自身が、自分を認められないからである。
自分自身が、自分を褒められない。
自分自身が、自分を賞賛できない。
自分自身が、自分を尊敬できない。
自分自身が、自分を好きになれない。
自分自身が、自分を愛せない。
だから、他者の評価を奪取しようとする。
本当は自分に自信がないから、
「他者からの評価が全て」になる。
だから、他者の評価を下げる。
本当は自分に自信がないから、
「他者を貶めることが全て」になる。
自分を大切にしていない。
自分をいたわっていない。
「それ」を他者に求めても、解決しない。
自分そっちのけで、外ばかり見ていても、解決しない。
向き合うべきは、自分自身である。
自分をいたわり、
自分を大切にする。
自分を褒めてあげよう。
自分を賞賛してあげよう。
自分を尊敬できるようになろう。
自分を好きでいてあげよう。
自分を愛してあげよう。
どんな時も、
何があっても。
自分を最後まで見捨てずに、
自分という存在の「最大の味方」でいてあげよう。
「えらそうな人」が、
あなたにえらそうな態度をぶつけてきても、
「馬鹿にする人」が、
あなたを馬鹿にしてきても。
あなたとは、関係がないのである。
その人が抱えている問題なのだ。
そう気付けたら、
腹も立たなくなる。
心軽やかに、生きられる。
明日は明日の風が吹く。
えらそうにしても偉くはない馬鹿にされても馬鹿ではない作者不明(瀬戸のお寺の掲示板より)