偽物の「和」を見極める

日本人の美徳として、
「和」を大切にするというものがある。
「和を以て貴しとなす」という、聖徳太子の有名な言葉があるが、
集団、組織で活動するにあたって、常に全体の調和を優先させることができる、
そういった民族性を備えているといえる。
「調和」はバラバラの個性・集団を一体化し、
力強い生き物のように躍動させ、
大きな創造力を生み出すものだといえる。
チームが1つの目的に向かって、
個々人の短所を補い合い、長所を伸ばし合い、
単純な10+10=20の足し算ではなく、
10×10=100のように掛け算で高め合っていく、
「シナジー効果」を引き出すものである。
「和」とは、前向きかつ建設的な意識であり、
共存共栄、相互扶助の精神に基付いたものである。
親和的で、尊いものである。
だが、私がいた会社の「和」は違った。
「人生に対する諦め」
「仕事に対する諦め」
「他人に対する諦め」
「自分に対する諦め」
それらを直視したくない集団が創り出した、
生ぬるい、後ろ向きな空気感だった。
お互いを高め合うものではなく、
何かを改善していくものでもなく、
ただ、その場を無難にやり過ごすための方便だった。
私が昇進して部下を指導する立場になって以降、
様々な「自分の信念を試される」ような場面に遭遇したが、
私は意に介さなかった。
どれだけ「駄目な空気」の中に身を置いても、
自分自身は、自分を下げるようなことはしたくなかった。
その覚悟を持って生きていた。
ある日、会社の年老いた重鎮に言われた一言が、今も印象に残っている。
「和を乱すな」
衝撃だった。
「変化を起こすな」
「場の空気を乱すな」
「異論を挟むな」
ということである。
それは私には、
「お前も駄目なままでいろ」
ということにしか聞こえなかった。
私は言いたかった。
「和」とは、
このような醜いものではない。
後ろ向きなものではない。
ことなかれ主義のことではない。
それはただの、
「負け犬の傷の舐め合い」であり、
「同調圧力」である。
「和」という衣を借りた、臆病者の言い訳である。
あなたのいる職場にも、そんなことがあるかもしれない。
「和」という名の、後ろ向きな同調圧力が。
あなたの「成長」に大きな障壁となって立ちふさがってくる、
偽物の「和」が。
目先の心地よさに惑わされて、
その「和」が偽物であることに気付かないまま、
淡々と人生が過ぎていく。
「これでいいんだ」と、
思考停止状態で生きていく。
確かに、それは楽である。
ただ、私はもう御免だ。
なぜか?
「死ぬ時に後悔する」ことが、わかりきっているからである。
明白過ぎるほどに明白ではないか。
そんな人生を、誰が望むというのか?
本当は、誰も望んでいないのだ。
ただ、もう人生に疲れて、楽になりたいだけなのだ。
自分の目で「見る」ことを放棄しているのだ。
私は、会社の人間関係を「手放した」。
「昔の駄目な自分」に引き戻す流れを絶った。
そこから、私の新しい人生が始まった。
新しい「出会いの旅」が始まった。
あなたなら、どうするだろうか?
問題になっていることに
沈黙するようになったとき、
我々の命は終わりに向かい始める。
キング牧師